目次

このコンテンツは、ネットフレンドの月恵さんのBBSで行われた脚韻論議を月恵さんが編纂して、サイトの運用終了後にご提供くださったものです。

日本語脚韻論議 (2) (3) (4) (5) (6) タイトル一覧

日本語脚韻論議(1)

2003/01/13 リンクさせていただきました
deo:

  月恵さん、こんにちは。ご挨拶がてらに脚韻都々逸をプレゼント。

    意味を合わせる苦労を隠し
    作る見事なその訳詞
月恵:   最高のプレゼントで、感激です(*^_^*)
たみい:   deoさん、初めまして。韻、難しいものだったんですね。
月恵:   たみいさん、私が「日本語は歌詞にするには不利」と言っている理由の一つに、韻を踏み難いことがあります。脚韻に挑戦した日本人はきっと昔から沢山いるはずなのですが、「未だ確立されていない=それだけ難しい」という事です。
  deoさんのページに紹介されている木村先生とdeoさんは、現代における先駆者と言ってよいかも知れません。
たみい:   詩歌が好き、なんて言いながら、何も考えていませんでした。
月恵:   韻にとらわれ過ぎて、たみいさんの持ち味が壊れるのは良くありません。韻を意識した詩を知ることで、新しい視点を持てれば幅も広がるとお考えになれば良いと思います。
2003/01/14 日本語脚韻
deo:   たみいさん、こんにちは。
  私は、英語、フランス語、中国語などで広く行われている脚韻が日本語でもできないものかと試行しています。日本語は、英語や中国語などと違って音節構造が単純な上に、ヨーロッパ語にある強弱アクセントがないという言語特性ゆえに脚韻が発達しなかったのだろうと考えています。
月恵:   仰る通りだと思います。日本語も意味の面では俳句など随分と洗練されたものがありますが、音の面では「律」しか楽しめないのは何となく寂しい感じがします。
deo:   そうですね。でも、最近、日本語ラップ音楽で脚韻を試みる人たちがいるので、律だけでなく韻も楽しむこともこれから広まっていくだろうと思っています。
月恵:   日本のポップスでも韻を重視した曲は結構あります。でも、歌詞の内容がお粗末になっている感があり、それが残念です。意味的充実+音的充実をクリアしようと思えば、deoさんの仰る通り曲調を選ぶ必要があるのかも知れません。
deo:   韻を重視しているかどうかにかかわらず、日本の流行歌には、歌詞に味わいがないものや意味がわからないものがいっぱいありますね。
月恵:   そうですね。訳詞をやってみて一層その感が強くなりました。
deo:   私は、言葉遊びに徹するなら韻踏み・意味なし(「驚き、桃の木」のようなもの)でも許すけど、自分では韻踏みで意味がちゃんとわかる、さらに味わいを持たせることにこだわっています。
月恵:   deoさんの作品は素晴らしいと思います。
deo:   ありがとございます。m(_"_)m 日本語脚韻では「セブンイレブン、いい気分」のように句末2音をそろえれば語呂が良いのですが、長い詩で2音をそろえるのは困難です(私は16行の詩でやったことがありますが)。
  日本語韻律論の定説では「驚き、桃の木」「どうする?アイフル!」のように1母音+1音を合わせればよいとされており、これだと長い詩でもけっこう作れます。
月恵:   じゃあ、脚韻辞書のようなものがあれば簡単に作れるのでしょうか?
deo:   外国語には脚韻辞書はあるそうです。日本語脚韻辞書を作った人もいるそうなのですが、日本語脚韻の研究家たちに広く支持されているものではないようです
月恵:   何故なんでしょう?韻だけの分類で意味は整理されていないとか?
deo:   動詞や形容詞などの活用形や、名詞と助詞の組み合わせなどをを考慮すれば膨大な数になりますから、実用的なものを作りにくいのです。押韻詩をちょっとやってみれば、脚韻辞書などなくたって韻を探すことはできるようになるものですけどね。
月恵:   そうですか。それだけ日本語の音節構造が簡単と言うことなのでしょうか?
deo:   英語を知っている人なら、たとえば「sky」と韻を踏む語を挙げなさいと言われれば、「buy, eye, guy, high, lie, pie, rye, shy, sigh, tie, why」とたくさん見つけることができるでしょう。
  日本語でも、「愛」と韻を踏む語を挙げれば、「ふれ合い、そうかい、心外、散財、行きたい、膨大、行かない、心配、舞い、やるわい」など、たくさん見つかります。慣れれば簡単ですよ。
  日本語韻でおもしろいのは、「そのほか、ないのか」の「の+か」のように2語で構成することもできるという点です。英語の二重韻(2音節韻)にもなくはないですが、ヨーロッパ語にはほとんど見られません。
月恵:   なるほど。逆に日本語ならではの韻の踏み方もあるんですね。
  あの〜、deoさんのページをこちらでご紹介してから、主人が脚韻にはまってます(^^ゞ「結婚式は新郎、黄門さまは印籠(・・・ネタが尽きるまで続く)」ってな感じで(^_^;)
deo:   わーい!ぱちぱちぱち「お慕い申し候。しからば次へ参ろう」。
  名詞以外も探すとさらにおもしろいですよ。
  また、日本語韻律論の定説による二重韻は、末尾から2音目の子音は異なってもよいので、「おいらが村の村長、お国の指示に反抗」といったものでも韻になります。
月恵:   すみません。主人にレスするよう勧めたのですが、照れてしまって出てきません(^_^;)
deo:   ところで、月恵さんの訳詞のように、元の意味を活かしながら音数をそろえた詩を作るのは、むずかしいけどおもしろいですね。
月恵:   王菲の曲「単行道」の歌詞には、「春暁」のアレンジが含まれているんです。この曲はラップとは違いますけれど、とても早口な部分があり、その部分は中国語が複合母音であれば日本語を2音にするなど、日本語でも早口なリズムを楽しめるよう作ってみました。
deo:

  メロディーを知らないので、リズミカルに聞こえるかどうかわからないのですが、その部分を私流に作ってみました。

    春眠不覚暁 庸人偏自擾
    走破単行道 花落知多少 不掉

    春眠寝すぎ 凡人あわて
    一方通行路 花散らし 走る

  中国語は知らないからむずかしいな。英語とフランス語なら読めるんですが。
月恵:   この部分は私も5音節で訳していますので、リズム的には同じです。メロディーにも十分乗ると思います。中国語の「破」と日本語の「方」は発音が似ているので、その箇所がぴったりなのが良いです。
deo:   私は音数だけでなく、脚韻という縛りを課すむずかしさを楽しんでいるのですが、やはり大切なのは詩の持ち味だと思います。
たみい:   しばりをかけて難しさを楽しむ・・そ、その域には多分永遠に達しないかと、(^^;;)。
2003/01/15 韻踏むと 暗唱しやすい
たみい:   詠じてみて耳に心地よい事、それだけは少し考えます。
deo:   音楽は、不規則でも単調でもない適度な繰り返しでできているから、聴いて心地良いんですよね。長歌、短歌、俳句、都々逸などでは、音数が規則的なので音楽的な心地良さを感じます。詩で音数を規則的にして、さらに脚韻で句末の音を規則的に揃えると、さらに心地良く感じます。
  それと、脚韻を踏むと詩を暗唱しやすいという効果もあります。音が規則的に配置されるからです。
たみい:   そう言えば、古い詩歌などでも、覚えているのはそういうものが多いような気がします。
deo:

  例として、私の漢詩七六調訳を挙げておきます。

            春暁
    春眠不覚暁  春のあけぼの、まだ眠たい
    処処聞啼鳥  鳥がチュンチュン鳴いとるわい
    夜来風雨声  夜の土砂降りやんだみたい
    花落知多少  花が散ったか、ちと心配
たみい:   凄い!
2003/01/17 和訳、手を焼く
月恵:   日本のポップスを聴いていて思うのですけど、「歌」なのにサウンド重視で歌詞は二の次のような。音に乗りさえすれば良いと言うことなんですかねぇ。
deo:   桑田佳祐の作品には、わけのわからんものが多いようです。でも、大衆に支持されているんだから、それはそれでいいんでしょう。
  もっとも、桑田佳祐の作品にも「私はピアノ」のような超まともな歌詞もありますね。
月恵:   基礎的素養の高い人が意図的に作る「訳の分からん詞」は、それ相応の光る物があると思います。そのレベルに達していない人の作る「訳の分からん詞」は本当に訳が分からんだけ。しかも、それが氾濫している(-_-;)
deo:   確かに。桑田佳祐は、超まともな歌詞も作るという基本を踏まえているから、わけのわからん歌詞にも、大衆に支持されるだけの光るものがあるんでしょうね。
月恵:   それから、これは前々から思っていたことなんですが、漢文の所謂書き下し分のことなんですけどね、どうして漢学者の先人達は日本人が口ずさめるよう、より人口に膾炙するよう「加工する」作業をしなかったんだろう。
  「難解な言い回しで書き下すのが正統で高尚、簡単な表現にするのは低俗」とのインテリ意識?若しくは「漢文は外国語なのだから、漢語本来の良さをそのまま味わうべき」と言うことでしょうか。でも、作業の難易度を考えれば簡単な日本語に作り変えることも随分と大変なような気がしますけど。
deo:   同感です。それはお経についても言えます。玄奘がサンスクリット語から漢訳した経典を、どうして日本の仏教者は和訳しないのだろう。だから多くの日本人は、本来は生きる人のための知恵であるお経を、死者を弔う呪文としか思っていないんでしょうね。キリスト教宣教師は、日本を含むどこでもその国の言葉で教えを広めたのに。
月恵:   「採り入れ上手の日本語(by 木村先生)」のはずなのに。いや、採り入れ上手だったから、そのまま採り入れようとしたのかも。ああ、そうなのかも。「加工せずにそのまま採り入れる=対象を尊重する」これが日本人の外来語との接し方だったのかも知れない。
deo:   それは言えると思います。それだから本質(たとえばお経については、死者を弔う呪文ではなくて生きる人のための教えであること)でなく表層しかとらえていないという面もありますね。
月恵:   そうそう、木村先生の脚韻辞書に関するご意見、拝見いたしました。日本語脚韻辞書はあまり役に立たない…。
deo:

  日本語脚韻は、

    車手放し金に換え
    貯金はたいてアメリカへ
(「参考」のページをご覧ください。全編三重韻(1母音+2音)の作例の一部です。)
  参考:
実験詩集

  という例のように2語(アメリカ+へ)で構成できることも多いので、そういうのもすべて脚韻辞書に掲載しようとすると大変なのです。コンピュータで語の組み合わせを自動化するといいかもしれませんけどね。
  でも私は、味わいも重視した押韻定型詩をたくさん作って世の人々に認めてもらう努力の方が先だと思ってるんですよね。
月恵:   deoさんの言われていた、日本語ならではの脚韻(2語で構成することもできる)というのは、表音文字ならではですかね。と言うことはハングルも?韓国ポップスの歌詞は韻を踏んでいるのだろうか…。
deo:   いや、表音文字は関係ありません。日本語脚韻は二重韻(1母音+1音)以上とすべしとされており、だから末尾に1音の語を配して脚韻を2語で構成することもできるのです。ヨーロッパ語では、二重韻は末尾から2音節目に強アクセントがある単語で構成するものであり、2語で構成することはほとんどありません。
  ハングルは、英語や中国語なみの多様な音節構造を持ちながら、日本語と同様、押韻はほとんど行われていないそうです。
月恵:   そうですか。私の感覚からするとハングルの音節は中国語より日本語に近いような気がしますが。今の時点ではハングルに対しても勉強不足なので何も言えません(^_^;)
deo:   ハングルは、閉音節(子音で終わる音節)もあるという点で、英語や中国語に似ています。しかし、(私もハングルは勉強したことがありませんが)聞く印象では強弱アクセントがないという点で日本語と同様と思われます。だから脚韻が響きにくくて発達しなかったのではないかと推測しています。
月恵:   それからもう一つ。主人の話では、オール阪神巨人が「末尾が同じ言葉(同韻)」を漫才ネタにするのが得意だと。大阪伝統芸能には、意外と韻を含め「言葉遊び」の要素が多いそうです。
deo:   あ、そうなんですか。おもしろそう。具体例を教えていただけるとうれしいです。
月恵:   漫才のネタをまとめた本などはないのか?と主人に聞いたのですが、基本的に漫才と言うのはネタを残さないものなんだそうです。上方芸能を研究されている方の書物などを探したら何か手がかりがあるかも知れません。
2003/01/19 脚韻、推進
月恵:   脚韻に表音文字は関係ないとのことですけど、「アルファベットと日本語仮名の違い」と言う方が正確ですかね。
deo:   文字でなく、音節構造の違いによるものです。
  日本語は母音が5種類しかなくて開音節(母音で終わる音節)ばかり、しかも強弱アクセントがないという特性ゆえに、「セブンイレブン、いい気分」のように2音、あるいは少なくとも「どうする?アイフル!」のように1母音+1音を合わせないと脚韻として響きません。
  中国語は、音節構造が多様で、1音節の長さは日本語の1音節よりも長く、必ず1音節の韻になります。
  ヨーロッパ語では、末尾に強アクセントがある単語なら1音節の韻、「story, sorry」のように末尾から2音節目に強アクセントがある単語なら二重韻になります。
月恵:   なるほど、分かりました。ヨーロッパ語はアクセントが韻の一部になるから、その分韻が踏み易いんですね。
deo:   なお、戦前の哲学者・九鬼周造はイタリア語を参考に日本語の二重韻を提唱しました。イタリア語は音節構造が単純である点で日本語に近く、有名な「サンタ・ルチア」の「バルケッタ・ミア/サンタ・ルチア」のような二重韻が多いのです。
  しかし、イタリア語に二重韻が多いのは末尾から2音節目に強アクセントがある単語が多いからだということに気付いていた日本語韻律研究家はいなかったようです。私は最近それに気付いて、木村先生が発行している研究誌に「強弱アクセントのない日本語では、二重韻でありさえすればよいというものではない」と論じました。日本語脚韻はまだまだ研究途上です。
月恵:   ところで、先日言われていた、日本人がお経の本質(死者を弔う呪文ではなくて生きる人のための教えであること)ではなく、表層しかとらえていないということですが、教えそのものに賛同できなかったと言うのはなかったんでしょうか?
deo:   仏教に賛同できないという明確な気持ちがあれば、日本に“葬式仏教”さえなかったでしょう。本質を理解していないだけ(私もではあるけれども)。「うちは何宗だから数珠はこの形でなければならない」などという実にくだらんことにこだわる。
2003/01/20 どうする?ハングル!
月恵:   deoさんは、中国語に閉音節(子音で終わる音節)もあると言われましたが、中国語と言うのは広東語のことですかね?広東語なら「p」や「k」で終わる発音がありますけど。大陸中国語では子音で終わると言うのは「n」と「ng」しかないはず。あくまで現代中国語ですけど。
deo:   現代中国語は知らないんですが、漢詩の韻でよく見かける「滅、雪、切」の閉音節は今はどういう発音なんでしょ?「十」も昔の日本で「じふ」と音訳されたことから、これも閉音節だったと推測しているんですが。
月恵:   現代中国語の普通話では「滅=mie」「雪=xue」「切=qie」です。今の発音で行くと「雪」を同韻とするのはやや苦しいですね。「十」は「shi」。いずれも母音で終わります。現代中国語にはつまる音は無くなっているのです。
  広東語だと「滅=mit」「雪=syut」「切=chit」「十=sap」です。十は閉音節との推測は当たっていると思いますよ。
  それにしても、「どうする?ハングル!」には笑ってしまいました。皆さん気づかれてますか?deoさんの投稿タイトル、毎回脚韻踏んでいるんです。
deo:   ウケてうれしいです。(^_^)

戻る

日本語脚韻論議 (1) (3) (4) (5) (6) タイトル一覧

日本語脚韻論議(2)

2003/01/21 むなしき葬式
月恵:   発音のことですけど、大学で「唐代の漢字の発音は日本語の音読みが一番近い」と習いました。すっかり発音が変わってしまった現代中国語で唐詩を朗読するより、日本語音読みで朗読した方が当時の詩を再現できると。
deo:   あ、それはいいこと聞きました。日本語押韻論の論文を書く上で役立ちそうな情報です。ありがとうございます。
2003/01/21 機械損壊、直るかい?
deo:   学生時代に「なぜこんな勉強をせねばならんのだ」とひねくれながら、知っていてよかったと今にして思うのは、国文法。中学の時に詰め込んだ知識は今、仕事で書く技術作文にも趣味の文芸の研究にも役立っています。
月恵:   国語はかなり大事な科目だと思います。日本語文法は江戸時代から研究が進み整理されています。それに比べると中国語文法は整備不良です。一語の包括する意味が広いが故に、文法的に変な文章をカバーして意味が通じてしまうからかも知れません。
deo:   文法を整備する必要のない言語なんじゃないでしょうか。時制の変化はないわ、人称による変化はないわ、単複の変化はないわ、一つの漢字がいろんな品詞として働くわで、「これぞ理想の言語」と言ったヨーロッパ人もいたらしいです。
2003/01/22 「直るんかい」とも していいとも
月恵:   タイトルの「機械損壊、直るかい?」ですが、「直るんかい?」でも良いのでは?
deo:   ぱちぱちぱち。「直るんかい」は音数が偶数になるので、より語呂が良く聞こえます。
月恵:   実は、deoさんのかかれた「直るかい」を最初から「直るんかい」と勝手に読んでいたんです。大阪在住長いもので(^^ゞ
deo:   私は、1母音+1音の脚韻は、「驚き、桃の木」「どうする?アイフル!」のように偶数音の語または文節でそろえるようにしています。「貴乃花、終わりかな」のような奇数音では、末尾から2音目の「は」と「か」の母音の一致に気付きにくくて響きが悪いからです(その理由については木村先生の研究誌で理論的に述べたのですが、同じことを論じた人は今までいなかったようです)。
  しかし、2音を合わせるなら句末が奇数音でもかまわないというのが私の論考です。「セブンイレブン、いい気分」がその例。だから「直るかい」という5音でもよいことにしています。
月恵:   なるほど。語数も響きやすさに関係するんですね。
2003/01/23 できて幸せ、三音合わせ
月恵:   中国語は文法を整備する必要がないと言われていましたが、確かに一語がいろんな品詞になり得るので、文法的にその役割を覚えようと思えば逆に混乱するかも(^_^;)
deo:   たとえば「少年易老学難成 一寸光陰不可軽」の「軽」は、形容詞でなくて動詞(軽んず)だということは文脈でわかりますね。こういう具合だから中国人は、形容詞だの動詞だのといったことを気にせずに平気で意思を通じ合っているのではないでしょうか。
  中国人から見れば、「軽い」「軽んずる」と品詞に応じて形を変える日本語の方がめんどくさいかも。
  もっとも、英語でも、名詞と動詞で形を変えない語が多くて、外国人には解釈がやっかいなことも。(例:「The computer programs」は2通りに解釈できる。)
月恵:   それと、この間のdeoさんのお話を読んで感じましたが、語数(律)は日本語文芸にとって鍵なんですね。
deo:   そう思っています。日本語の定型律は伝統的に
    ふる・いけ・や_・__|
    _か・わず・とび・こむ|
    みず・のお・と_・__|
という具合にエイトビートに乗ります。1母音+1音の脚韻では、
    どう・する|アイ・フル|
のように四分音符1拍分の時間に2音節を発音するリズムでないと響きにくいというのが私の考察です。
月恵:   8ビートですか。ふむぅ。話は変わりますけど、「損壊(そんかい)」と「直るんかい」なら3文字脚韻でしょうか?3文字って日本語脚韻ではルール外ですかね?
deo:   およ、気付かず後悔、面目ない。3音合わせももちろんOKで、いっそうおもしろい響きになります。自然に3音合わせの響きを頭に浮かべられたんですね。
2003/01/24 リズム、はずむ
月恵:   日本語の定型詩はリズムに乗るとのご説明がありましたが、リズム感ゼロの私にはどうもピンと来ません(-_-;)
deo:

  音楽性についての情報を言葉だけで伝えるのはむずかしいですね。では、こう説明しましょうか。

    少年易老学難成
    一寸光陰不可軽
    未覚池塘春草夢
    階前梧葉已秋声

  これを、木魚を叩きながらお経を読むように音読みで朗読する(それは漢語の発音に近い)。なお、音読みが1音の漢字と2音の漢字があるが、漢語ではどれも同じ長さの音節なので、1音の漢字も2音と同じ長さで読む。

    しょうねんいーろう|がくなんせい__|
    いっすんこういん|ふーかーけい__|
    みーかくちーとう|しゅんそうむー__|
    かいぜんごーよう|いーしゅうせい__|

  このように、一行が4拍子2小節のリズムで朗読されます。1小節は漢語4音節ですが、これを日本語音としてみれば8音。つまりエイトビートということになります。
月恵:   木魚はないので手を打ちながら読んでみました。理論的には分かったような気がしますが、拍子を打つのに必死で韻の響きを楽しむのが疎かに…。
deo:

  上記のものとほぼ同じリズムで作っているのが私の訳詩です。

    若いからとて老いは自明
    今の瞬間大事にせい
    春に浮かれていて突然
    秋に気付けば取り返せん

    _わかいからとて|おいはじめい__|
    _いまのしゅんかん|だいじにせい__|
    _はるにうかれて|いてとつぜん__|
    _あきにきづけば|とりかえせん__|

  これは日本の七五調(例:♪あなた変わりはないですか/日ごと寒さがつのります)ともほぼ同じで、五音句が6音になっているだけの違いです。
  短歌、俳句、都々逸なども同じようにエイトビートで朗読できる律なんです。
  参考:
漢詩七六調訳
月恵:   リズムではなく「北の宿から」のメロディーにのせてしまいました(爆)でも、メロディーがある方が分かり易いような気も…。参考のページのdeoさんの作品を全部「北の宿から」のメロディーに乗せてもう一度読ませて頂きました(^_^;)
2003/01/25 「北の宿から」、うまく合うなら
月恵:   deoさん、「リズム、はずむ」は良い感じですね。
deo:   どもども。3音中の2音合わせは、韻踏みタイトルシリーズでは初めてですな。「ホンダ、跳んだ」みたいなキャッチコピーの著作権を押さえておいて儲けようかな。(^^)
月恵:   それは良いかも(^_^)でも、deoさんの作品、全部「北の宿から」に乗せてたら暗いです(爆)
deo:

  うん、そりゃ暗いわ。「われは海の子」のメロディーを使うのも悪くないかも。

    われは海の子白波の
    騒ぐ磯辺の松原に
    煙たなびく苫屋(とまや)こそ
    わがなつかしき住み家なれ

(ただし、この詩も七五調だけど、全部3・4・5の音数でそろっているわけではなく、4行目が違います。)
  なお、「北の宿から」や「われは海の子」のメロディーでいろは歌を歌うこともできます。お試しください。
  ただし、「北の宿から」のメロディーに私の漢詩訳を乗せると、最後六音句がメロディーに合うのと合わないのがあることにお気付きですか?末尾が「い」、「ん」、長音なら七五調用のメロディーに合うのですが、それ以外の音だと合いません。

  合うもの:「春暁」「不識庵の機山を撃つ図に題す」「偶成」「酒を勧む」「烏江亭に題す」
  合わないもの:「村の夜」「絶句」「元二の安西に使するを送る」「酒家に題す」
  参考:
漢詩七六調訳
月恵:   確かに合わないものもありますね。無理やりメロディーに乗せていました(-_-;)
2003/01/25 色は匂えど散りゆく花、我が世変わらぬものあるかな?
月恵:   あの〜すみません…。「いろは歌」って何ですか?(-_-;)
deo:

  いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす(ん)

↑のことです。これは、すべての仮名文字が1回ずつ現われ、しかもちゃんと意味を持つように作られた歌。

    色はにほへど散りぬるを
    我が世誰(たれ)ぞ常ならむ
    有為(うゐ)の奥山けふ越えて
    浅き夢見じ酔(ゑ)ひもせず

  「参考」ページに意味が解説されています。
  参考:
「いろは歌」は、どんなことを歌っているのか?
月恵:   deoさんの作品で「北の宿から」に合わないものですけど、末尾の音はその前の音とセットで1拍になれるもの(上手く表現できません)じゃないと苦しいかも。
deo:

  そのとおりなんです。だから、「北の宿から」にしろ「われは海の子」にしろ、日本で作られるたいていのメロディーは、日本語脚韻を活かすには難があるのです。
  「春のあけぼの、まだ眠たい/鳥がチュンチュン鳴いとるわい」は七五調用のメロディーに乗るけど、「青い霜草、虫たち鳴く/どっち向いても行く人なく」は乗らないという具合。
  そこで、以前私が書いた「歌で韻を活かすにはメロディーを工夫する必要がある」という論につながります。「北の宿から」のメロディーを改造するとしたら、

    あなたかわりはないですか+と
    ひごとさむさがつのります+よ

という具合に1音増やせば、日本語韻が乗るメロディーができます。
  専門的に言えば、「北の宿から」は強拍終わりのメロディー。それを、1音増やして弱拍終わりのメロディーにするというわけです。イタリア語の「サンタ・ルチア」、フランス語の「雪が降る」(アダモ)など、ヨーロッパ語の歌は必ず、二重韻の所は弱拍終わりのメロディーになっているんです。
月恵:   ふむぅ。難しい。弱拍終わりの方が2音響きやすいと言うのは何となく分かる気がします。道は険しいです。出来の悪い生徒ですみません(-_-;)
deo:   韻律やメロディーを音として聴いていただくとわかりやすいと思うんですが…、文章ではなかなか。
2003/01/26 会って直接 したい解説
月恵:   脚韻を活かすよう、音数を考えた詞とそれに合うメロディーつけた曲が実際にあれば、私ももう少し分かると思うのですが…。
deo:   ないっ!ただし、日本語ラップには、不完全ながらそうなっているのはあります。
  「参考」のページにある恋愛詩に付けるメロディーの曲想は浮かんでいるんですが、それは文字じゃ伝わりませんわな。
  参考:
実験詩集
月恵:   deoさん、実際に曲作るのが一番説得力あるかも。
2003/01/28 むずかしいのは編曲、それができれば究極
月恵:   日本語脚韻を広めるために、韻律とか曲とかをレコーダーで録音して、音楽ファイル形式にしてHPで配信されれば?
deo:   主旋律を作って楽譜に書くことはできるんですが、人様に耳で聴いていただけるような演奏ができないからなあ。MIDI作成ソフトはありますが、編曲が大変。う゛う゛う゛…前途多難、ほしい指南。
月恵:   う〜ん。どなたかdeoさんにご協力して下さる方いらっしゃらないかしら。

戻る

日本語脚韻論議 (1) (2) (4) (5) (6) タイトル一覧

日本語脚韻論議(3)

2003/02/03
うれしさや保存されたる過去のログ われ満ち足りて読みつくつろぐ
月恵:   deoさんの日本語脚韻に関する書き込みは、大学のゼミぐらいの値打ちがあると思います。出来の悪い生徒(私)に一生懸命教えを授けて下さったことに対するお礼として、このページを作りました。私は日本語脚韻について何か述べることはできないけど、脚韻と言う考え方を広めることには賛成ですので少しでもご協力をと。
deo:   ログの編集ありがとうございますうううっ!m(;_;)m m(_"_)m
 エッセンスがうまく抽出されて、とても読みやすいです。韻に関心を持つ人にとって貴重な研究資料になりますね。
 私にとっても、こちらでの書き込みのおかげで自論を整理することができました。
2003/02/04 あなたの評価 いかがでしょうか
deo:

  こんばんは。
  私は、押韻詩や押韻フレーズを作る時、二重韻(1母音+1音合わせ)が響きやすいように句末を偶数音に揃えるというやり方をとっています。これは、日本語ラップ音楽を参考に思いついたことから「日本語ラップ律」と名付けています。(ただし、2音以上合わせる場合は句末の音数は偶数でなくてもよいとしています。)
  この考察について木村先生の研究誌に投稿したところ、原田昌雄さんという人から木村先生のもとに反論が寄せられました。原田さんは自分の流儀を「緩急律」と名付けていて、「私の緩急律から言えば、ラップ律が単調に過ぎることは明白である」とのこと。
  私は、次の論文でそれにこう答えるつもりです。
  「『明白』の論拠が述べられていないので、個人的意見と解釈させていただくなら、『そうですか』としか言いようがない。主観どうしの論争という無益なことをするつもりはない。もし、韻律の専門家のみならず多くの人が『緩急律の方がよい』と証言したという事実があれば、私は率直に受け止めよう。」
  私は、自分が考案した流儀を自分では良いと思っていますが、評価は世の人々に委ねるという考えです。私の主観では原田さんの作例では韻の響きを感じにくいと思っていますが、私とは違う感性の人々の意見を謙虚に受け止めます。よろしければご意見ください。

  (原田さんの作例)  十四行詩清音濁音
  (私の作例)  漢詩七六調訳  実験詩集
月恵:

  原田さんの作品とdeoさんの作品、読み較べてみました。
  deoさんのおっしゃる「二重韻(1母音+1音合わせ)なら句末を偶数音に揃える」、「2音以上なら句末の音数は偶数でなくてもよい」と言う考察が、日本語脚韻の方法論として最適なものかどうかは、不勉強な私には判断できません。ですから、その観点からはどちらが単調だ、どちらがより韻が響きやすいとは申し上げかねます。

  あくまで中国語の訳詞を独自にやった者の立場から言わせていただきますと、私の訳詞もdeoさんの作品も「より分かり易く、より耳に残り易く」が原点ではないのかなと思うのです。私の訳詞は、読者の対象を「今を生きる現代日本人」に設定しています(恐らくdeoさんの作品もそうではないでしょうか)。
  その点からすると、原田さん(存じ上げもしない方のことを意見するのは実に気がひけるのですが)の詩は、正直申し上げて分かり難いです。韻と律に対するこだわりも相当おありで、用いる言葉もかなり吟味されておられることについては、深い敬意を表します。でも、すんなりと一気に読めないため、どこが韻を踏んでいるのか、どこで切れば良いのか、さらには詩の意味さえ何度も読み直さねば分かりません。「それは、あんたに古文漢文の素養がないからだ」と言うことになるかも知れませんが…。
  逆に、deoさんの作品は一読しただけで、どこが韻を踏んでいるかよく分かります。意味もよく分かるこなれた言葉で覚えやすいです。ですから、「どちらが良いか?」ではなく「どちらが好きか?」と聞かれれば、deoさんの作品の方が好きですとお答えします。

  お二方の作業は作業の難易度、作業のバックグラウンドとなる素養、自己満足の点においては大差はないと思います。「脚韻にこだわっている」という共通点があるだけで、作る作品は全く別の方向を向いているのですから、比較の対象にすること自体が難しいと言えるかも知れません。
2003/02/06 重視すべきは感性 それは私も賛成
deo:   月恵さん、ご意見ありがとうございます。韻についてコメントしていただける方と出会うことができたのは本当にうれしく思います。
  おっしゃることはよく理解できます。月恵さんと同じく私も、現代に生きる人に理解できて心に響く詩を目指しているのはそのとおりです。
  実は、意味を離れて純粋に音だけをとらえた場合に、韻律の響きのよさはどうかという問題意識も私にはあります。木村先生も私も、そのように詩の特性の一断面だけをとらえる見方ができます。しかし、世の多くの人にとって、詩を味わうとはそういうものではなく、表された内容が心に響くかどうかがまず重要なんですよね。
月恵:   詩や文芸作品にとって一番大切なのは韻か?と問われれば、私は恐らくNoと答えるでしょう。一番大切なのは、やはり込められているメッセージの内容だと思います。ですが、メッセージが素晴らしければどんな表現でも良いか?と問われれば、これまたNoでしょう。文学は、言葉を道具とした芸術ですから、伝えたいメッセージをよりインパクトある形に整形し、より読者の心に残り易くする必要があると思います。それは文学作品を創る者が最低限やらねばならぬ努力でしょう。その「整形」の手段の一つとして、韻は非常に有効な手段だと思います。耳に心地よければ、心に残りやすいですから。
deo:   私の作品の方が“好き”ではあるとおっしゃってくださったのは、韻律という特性だけではなく、現代人の感性に訴えたいという努力の結果も含めて総合的に評価してくださったものと受け取りました。
月恵:   deoさんの作品は、一読して「私の訳詞と共通点がある」と感じました。私の訳詞も、deoさんの脚韻詩も、一般的に見ればそこまでこだわる必要は全くないもの、極端な言い方をするなら無用の長物なのかも。それでも、世の人々が余り気にしてない部分がどうしても気になる、だから自分でやってみる。その感覚が似ている気がします。
deo:   私もそう思います。私は「詩とは元来、言葉の音楽である」と思っています。日本にも、韻は発達しなかったものの、長歌、短歌、俳句、五七調、七五調といった律の規範があります。その縛りから脱却しようとした自由律の流れを私は否定しません。しかし、今の日本に氾濫する、字数を揃えない詩は、律の規範という基本をわきまえた上でそれを乗り越えたというよりは、基本を忘れた無秩序になっていると思います。
  月恵さんは、元歌のメロディーに乗るように音節数を揃え、なおかつ元の歌詞の意味を活かすという縛りの中で精一杯表現しようとしておられます。私は、押韻論を踏まえて自ら韻律を規定し、その縛りの中で精一杯表現しようとしています。詩の原点に立ち返っているという点で共通していると思います。
2003/02/06 プロの道 果ては未知
deo:   私が考えて実践している日本語ラップ律という規則が良いものかどうかは何とも言えないというのは、それはそれでよいのですと申し上げるべきでしょう。詩人を料理人、読者を客にたとえるなら、客が「おいしいですよ」と言ってくれれば料理人の喜びとしてそれで十分。「私が自分に課している調理法は良い方法だと思いますか?」に対する答えをお客様に求める必要などないという考え方もできますね。
月恵:   私自身が脚韻詩を作りに作って、どんなルールが一番最適かなど追求することは、今後もないと思います。deoさんや木村先生のご指導を素直に学ぶ生徒のままでしょうが、バックアップできることはご協力いたします。
deo:   ありがとうございます。
  どんな韻律規範が良いのかを見極めてそれを打ち立てるのは、木村先生や私のような“特異な”存在の人にしかできないことだろうと思います。何が良いのかを見極めるには、プロの料理人がお客様からの厳しい評価を受けながら腕を磨くように、“特異でない”人たちからのフィードバックを得なければならないと思っています。
  ところが、お客様から「このおいしい料理の作り方を伝授してください」と頼まれたら、プロは“お客様に奉仕するしもべ”からとたんに“厳しい師”に変貌しなければなりません。そこでまず教えるべき基本は、感性という非論理的なことでなく、規範という論理的な部分です。日本語脚韻の規範は完成されたものではなく、まだ試行錯誤が続いていることです。
  どんな規範が良いのかを探るために、ここでご意見をいただきました。そして、私はそれをさらに“科学的に”探る方法を考察しているところです。私が書き込んでいる韻踏みタイトルのようなフレーズをたくさん作って、たくさんの人に聞き比べてもらうというやり方がその一つです。
  その際、フレーズで表現される感性が韻律の評価を揺さぶってしまわないか、その影響を排除して、規範という部分だけについて論理的な評価ができる方法はないかと考えています。もしかしたら、「驚き、桃の木」といった無意味さや、原田さんの作例のような(凡人にとっての)“わからなさ”が科学的探究のために参考になるかもしれないと考えているところです。
月恵:   deoさんの言われるように、いろいろな角度から観察することも必要かも。実際に音に乗せるのも。deoさんの定型詩のどれを歌っても心地よいようなメロディーを作るのが、説得力あると思いますけど…。あ、でもこれこそ感性論かな(-_-;)
2003/02/07 音の一致 響きリッチ
deo:   韻は、古代には初歩的な音合わせから始まったものだろうと思います。それが何百年、何千年の歴史を経て、高度な文芸として確立しています。単なる音合わせにとどまらず、音の一致の“意外性”の楽しみというところに芸術性があります。意外性を追求するために、音が一致して当然の同語や同系活用語を避けるという規範が外国で確立されてきました。
  その意味で、「飛」の新しい訳詞は、外国育ちで日本語に取り入れられた押韻論でいう韻にはあたりません。しかし、韻のルーツを最初からたどってみる試みとして価値があると思います。実際、韻ではなくても同音の繰り返しは、月恵さんの感性とあいまって、それなりの味わいをもたらしています。
月恵:   そうなんですよ。韻にはなっていないのけど、歌うと収まりが良いんです。散らかっていた部屋がすっきり片付いたかのような。
deo:

  私も、日本語押韻論を知らなかった時の最初の試みでは、単なる末尾音合わせから始めました。その2ヶ月足らずの後に、自力で二重韻を思いつきました。そして木村先生から押韻論を学び、半年くらい後に日本語ラップ律という独自の規範を考案しました。
  「飛」の最初の4行だけ、押韻の規則に則って変えてみました。

    高い 空の はるかな
    雲は あなた なのかな
    あてもなく 一人 飛んでみたい
    わかってるよ 私 せつない

(「たい」「ない」「かっ」は一音節扱い。)
2003/02/07 文法韻 こりゃ敗因
deo:

    > 高い 空の はるかな
    > 雲は あなた なのかな
    > あてもなく 一人 飛んでみたい
    > わかってるよ 私 せつない

  おっとー!「たい」「せつない」はともに形容詞型活用語なので、文法によって末尾が当然揃う「文法韻」といって、避けた方がよい韻とされています。うっかりちゃんちゃこ。
  うーん、味わいとしては我ながら悪くないとは思いますが。
木村先生:   「みたい」は、子どものように「みたく」と連想で活用するより、「みたいに」「みたいな」と活用するはずですから、形容動詞語幹ふうで、別に文法韻ではありません。
  また、「お墓だ」「静かだ」は、別品詞構成ながら、文法韻同様とみなす小生でも、「みたい」と、特に助動詞でなく、形容詞との押韻なら、別に韻の質として問題ないと判断しています。
月恵:   木村先生、歓迎光臨!書き込み本当に嬉しいです。
deo:   木村先生、コメントありがとうございます。
  いや、私は「雲みたい」の「みたい」と混同していたので投稿後まで気付かなかったのですが、「飛んでみたい」は「飛んでみたかった」「飛んでみたくて」と形容詞型の活用をしますから、文法韻です。
  でも、不思議なことにこの例では“文法韻のつまらなさ”を感じにくいんですよね。
木村先生:   初投稿でチョンボしましたが、話題としてはよかったか。
  でも、「ない」の形容詞と助動詞、そして「赤い」や特に「少ない」などの文法韻の許容には、拡大したくないところ。
  ai は脚韻が豊富なところなので。
2003/02/08 曲に合わせて韻踏みたい それは元々超難題
月恵:   deoさん、「飛」の手直し、有難うございます。
  脚韻を重視するなら、deoさんの詞の方が断然良いです。これは、ちょっと反論になってしまいますが、メロディーに乗せるとdeoさんの詞の良さが半減するような気がするのです。
deo:   そういうことはあるだろうと思います。私は、メロディーを知らないまま、元の意味と音節数だけを考慮して韻を踏んでみただけですので。
  中国語、英語、フランス語など、一音節韻が成立する言語に合わせて作られた曲に日本語の二重韻を乗せることには無理があります。私は、やってみたことはありますが、強拍終わりの曲に二重韻を乗せても響きにくいと気付きました(「参考」のページの終わりの方に、私の足跡として残してはあります)。
  参考:
実験詩集
木村先生:   小生がいつも七七なのは、例えば曲がよくても歌が下手、とかの問題をとりあえずのけておきたいからです。
  二重韻止まりが多いのも、「定説」だし、拡充二重韻だけではできそうもないから。ただ、ひらがな1文字での脚韻は、うっかり以外では、ありません。
deo:   元来、歌詞で韻を踏もうとしたら、まず歌詞を作って、それに合わせて曲を付けるのでないとうまくいかないと思います。ヨーロッパ語の歌は、単純韻(一音節韻)と二重韻が混在している歌詞でも、それぞれの韻にぴったり合う曲になっています。
月恵:   きっとそうなのでしょう。でも最近の日本ポップス界は先に曲を作って、後から詞をつけるやり方が主流と聞いています。だから、余計に詞が疎かになっているのかも知れまん。
deo:   既存の曲に日本語詞を付けてうまく二重韻を踏むのも、できなくはないけど、無理にやろうとすると、言葉が限られてしまって、歌詞の味わいを犠牲にせざるをえないことにもなるでしょう。
2003/02/08 規範乗り越え 行くはいずこへ
月恵:   deoさんが手直しして下さった「飛」の4行について、ご自身も「不思議なことにこの例では“文法韻のつまらなさ”を感じにくい」と言われましたが、そうですね、「飛んでみたい」と「せつない」でも、とても素敵に感じられます。言葉を選ぶ場合、情景設定(全体を通して読んだ時に湧くイメージ)に統一感があれば、脚韻の不備をカバーするのでは?さらに、その情景にぴったりのメロディーがあれば、一層カバーしてしまうような気がします。
deo:   それはそのとおりだと私も思っています。
  外国で長い歴史をかけて確立した韻律論によれば、韻は音の一致に意外性があってこそ芸術的であり、音が一致して当然の同語や同系活用語は韻としてはつまらないものとされています。しかし、その規範を乗り越えて、韻としてのつまらなさがどうでもよいくらいに豊かな感性が表現されるなら、それはそれでよいのだと思います。
月恵:   おっしゃることは良く分かります。「意外性あってこその芸術」は、上方演芸の漫才や落語にも通じることだと思います。誰にでも思いつく言葉遊びならば笑いはとれません。予想外のボケだからこそ笑えるのです。
deo:   ただ、木村先生が大学で韻律を学生に実習させる時は、「同語や文法韻は絶対ダメ」という条件を課しておられます。「場合によっては可」とすると、初心者はそれに甘えて安易に音合わせの条件をクリアしようとしてしまうものです。可と認めるべきかどうかは、感性という非論理的な基準で判断せざるをえません。だから、「ともかく同語や文法韻を使わない正統な押韻をまずマスターせよ(あえて規範を破るのはそのあとだ)」という教育方法は、私も正しいものと理解しています。
月恵:   その方法は私も支持いたします。何事も基礎あっての応用ですから。
deo:   自由律は、定型律という規範をあえて乗り越えようとしたものだったはず。ところが、今の詩壇に氾濫する、字数を揃えない詩には、定型律を乗り越えてこその豊かな表現というものが感じられません。木村先生は「行分け散文」、私は「言葉の排泄」と呼んでいます。そんなことにならないためにこそ、まず規範を確立して守るということは大事だと思います。もっとも、日本語脚韻という規範は確立途上ではありますが。
月恵:   私は現代詩にも詳しくありませんけれど、感覚的には「言い得て妙」と言う気がします。

戻る

日本語脚韻論議 (1) (2) (3) (5) (6) タイトル一覧

日本語脚韻論議(4)

2003/02/08 韻律作りは人それぞれ 感性良ければ人聞き惚れ
月恵:   あ、そうそう、deoさんのは「ラップ律」でしょ。それで、今までのdeoさんの投稿タイトルを全部ラップ調で読んでみたら、実に面白いです!確かに、ラップは脚韻を引き立てます。
deo:   ありがとございます。おもしろいでしょ。(^^)
  日本語には漢語のような音節構造の多様さもない、しかもヨーロッパ語のような強弱アクセントもないということが、脚韻が発達しなかった理由だと思っているんですが、ラップで歌うことによって強弱アクセントと同じ効果が持ち込まれたため、脚韻が引き立つようになったと考えられます。
月恵:   でも、個人的にはあまりラップとかヒップホップとかの曲は聴かないんですよね。何となくうるさくて<ばば臭いっての(-_-;)
deo:   私も同じですよ。テレビでラップを聞いたことがありますが、韻を踏んでいるんだろうなとは思いながら、早口でうるさくて、言葉をよく聞き取れませんでした。
  私がラップ律を考案したきっかけは、たった1曲のラップ音楽です。数年前、岩男潤子さんが好きで買ってあったCDのカップリング曲だったのですが、曲に心を惹かれることなく、ずっと聴いていませんでした。そこに日本語脚韻の研究材料があったとは、長い間気付いていなかったのです。
月恵:   きれいなメロディーで脚韻を引き立てることってできないのかなぁ。
deo:   できます!私は演奏できないから実証できないだけで。
  以前木村先が「小生がいつも七七なのは、例えば曲がよくても歌が下手、とかの問題をとりあえずのけておきたいから」と言われていました。
  師匠に代わって弟子がご説明しますと、押韻の論理的な規範を確立する上で、感性という非論理的なものによって規範の良し悪しの評価が揺さぶられることを回避したいという意味と私は理解しています。
  木村先生は、文系の人なのに発想が理系的なんですよ。だから日本語脚韻の論理的規範という研究ができるんだと思います。
月恵:   ふむふむ。方法論を確立するのに、感性を採用していては成り立ちませんものね。
2003/04/11 「顔」の脚韻詞
木村先生:

  ごぶさたしています。
  まことに遅まきながら、月恵さんの作品を元に木村流七七調で韻を踏んだものです。韻を踏む人が訳したらこんな感じか、くらい思ってくださいませ(deo さんとも少し流儀は違います)。

    顔中がもう あなたの吐息
    スイセンのよう 形 悲しき
    顔面登山 思わぬ起伏
    しそう 遭難 でもなおも行く

    言っても無駄だ 相手 されない
    あなただけただ わかったみたい
    話さぬあなた 私もよ また (リフレイン)

    しずく したたり 顔 汗だくで
    眉間のあたり 梅雨時 まるで
    そのうち私 きっと変身
    時間 経ったし 絶えた音信

    ぼんやりした目 煙草 くゆらし
    涙かの雨 眠れぬ私
    ただ一つずつ 積み重なりは
    私 なりつつ 顔のその皺 (リフレイン)
月恵:

  木村先生、お久しぶりです。脚韻詞、お忙しい中本当に有難うございます。文字数を制約し、かつ脚韻構造を保つ詩に作り直すのには、ご苦労なさったでしょう。素晴らしいと思うと同時に感激しております。

  deoさんの流儀とは違うとのことでしたが、やっぱりラップのリズムに乗せてみるのが、一番韻をはっきり認識しやすいのでラップ調で読んでみました。でも、ラップだとどうしても軽い印象です。deoさん、韻が響きやすくて綺麗なメロディー教えてください〜
2003/04/12 二重韻 ズームイン
deo:

  二重韻に合うメロディーを、広く知られた外国曲から拾い上げてみます。
  たとえば、アダモの「雪が降る」。下記の訳詞(安井かずみ・作)に赤字で示した音が、フランス語の原詞で二重韻になっているところです。その部分のメロディーを思い浮かべてください。それが、二重韻に合うメロディーの例です。

    雪は降る あなたは来ない
    雪は
降る 重い心に
    むなしい
 白い涙(なみだ)
    鳥はあ
そぶ 夜は更ける
    あなたは来ない いくら呼んでも
    白い雪(ゆ
) ただ降るばかり

  わかりますかねえ…
月恵:   大体分かりました!ただ、小さい頃に聞いたことがある曲なのでちょっとうろ覚えです(^_^;)なので、正確ではないですが、とりあえず覚えていたメロディーで木村先生の脚韻詩を読んでみました。ラップより情緒的な感じで読めました。ありがとうございます(^_^)
  そうか。外国の曲のメロディーを当ててみればいいのかな。それで、七七の文字数に合うような曲を探せばいいんですかね?探してみましょう。
deo:

  うろ覚えでしたら、ほかの参考資料もご紹介しましょうか。
  日本の歌では、1960年代のグループサウンズの歌で最近島谷ひとみがリバイバルヒットさせた「亜麻色の髪の乙女」(橋本淳・作詞)の中に、二重韻を乗せることが可能なメロディーが部分的に含まれています。

    あまいろの ながいかみを
    かぜがやさしくつつむ

  赤字部分は、ポーズの直前に「強・弱」という拍になっている部分です。「かみを」は3音ですが、2音で歌えば二重韻を乗せることが可能なメロディーです。
  なお、その次の句末の「つつむ」の「む」は強拍です。この1拍に乗せることができる二重韻もありますが、「あい」「えい」「○ん」など、2音が融合して1音節に聞こえる音に限られます。
月恵:   なるほど、確かに「強・弱」拍です。
  木村先生が作ってくださった「顔」をこのメロディーで読んでみました。字数が合わないのでちょっと苦しいのですが、要は最後の2字を「強・弱」で読めば韻がよく分かるんですね。
deo:   以前、ある日本語脚韻研究家の押韻詩にある音楽家が曲を付けた歌のCDを木村先生からお借りしたことがあります。しかし、私が述べているような、二重韻に合うメロディー作りの方法論を外国曲からまったく学んでいないもので、韻を踏まない詩に付けた曲と変わりませんでした。歌を聴いても韻が響いて聞こえませんでした。
月恵:   そうなんですか。メロディーが必ずしも韻を響かせる要素とは限らないのですね。逆に言うと、木村先生の「素読でも良く分かる韻」でさえも音楽が台無しにすることがあるのかも知れません。
2003/04/12 「四・四・四」 作れたよん
deo:

  「やめちゃいな」の翻案のラップ律押韻詩です。
  もとより音数を曲に合わせてはいません。一行を4+4+4音にしたものです。
  これは、私がラップ律を考案した時に、二重韻を感じやすくする律の一つとして理論的に予想していたものですが、今まで実作はできていませんでした。これが最初です。

    もういい、やめなよ、強がり
    今まで辛抱ばっかり
    叫べばいいだろ、「もうダメ!」
    あいつに合わせていたから
    マンネリしちゃってだらだら
    そこから脱出するため

    言い訳なんかはいらない
    自分を解放しなさい

    もういい、やめなよ、その恋
    あんたの人生尊い
    今でもまだ間に合うから
    災難だったね、つくづく
    探せよ、自分の幸福
    まっすぐ前だけ見ながら
月恵:   新しい方法論確立への一歩ですね(*^_^*)
  ラップ調で上手く読めましたし、歌詞の内容も問題ないと思います。
  これは私個人の感じ方の問題かも知れませんが、例えばロマンチックな内容の詞や女性的でナイーブな印象のある詞などをラップ調で読むと、何となく乱暴で男性的に聞こえる気がして違和感を感じる時があります。
  その点、「やめちゃいな」は男性からのアドバイスととることも可能なので、抵抗無くラップでいけました。
2003/04/12 ちょっと改変 したけどかまへん?
deo:

  「探せよ」を「探しな」に変更しました。語り手を“言葉遣いがやや乱暴な女友達”とも想定できるように意図しました。
  四・四・四の律は、月恵さんのご主人が作られた「結婚式は新郎 黄門さまは印籠」とほぼ同じリズムです(「黄門さまには印籠」とすれば音数がぴったり同じになります)。韻を感じやすいように音数を工夫したものですが、3音の文節を使えないので、三・四・五(例:「あなた変わりはないですか」)などの古典律に比べて作りにくいようです。
  ところで、木村先生に突っ込まれる前に言い訳をば。

    もういい、やめなよ、強がり
    今まで辛抱ばっかり
    叫べばいいだろ、「もうダメ!」
    あいつに合わせていたから
    マンネリしちゃってだらだら
    そこから脱出するため

  「もうダメ」「するため」の韻の間に2行入っています。このような韻の配置は、ヨーロッパ語にはありますが、韻が響きにくい日本語には適さないと木村先生は論じておられます。しかし、あえてそのタブーを破ってみました。その代わり、末尾から2音目に清音と濁音の違いしかない韻を選んでいます。これは、後半の「合うから」「見ながら」も同じです。
木村先生:   抱擁韻が許容されるぎりぎりのところでしょう。
  つまり、拡充二重韻か、清濁の違いのみの二重韻ということ。
  また、1行14音でなく12音での韻ですが、4・4・4の律がしっかりしているので、同じ音節数なのがわかりやすいです。
月恵:   木村先生も大目に見てくださったようで良かったですね。
木村先生:   大目に見たというよりは、考えが少し変わった、ということです。
  自分が普段やる、単なる「二重韻」どまりなら、遠慮なく(笑)苦言を呈したでしょう。
  律の工夫は、小生の苦手とするところとはいえ、単なる12音節なら、拡充二重韻相当でも響きにくいでしょうが、音節数が合っていることが明白に感じられる律なら、使ってもいいでしょう、という感じです。
  韻を踏んでる、と言っても、deo さんや小生の感覚としては認めがたいものが多い中、deo さんは、意図的にか(?)木村流とやや違うものの、木村が自分ではやらないが認めるやり方を突きつけてくるので(笑)、木村も頑張らねば、の気持ちです。
月恵:   お二方とも良い意味で刺激になっているのではないでしょうか。
  私にはどちらがより響きやすいかと言う判断はつきませんけれど、より高度な日本語定型詩の確立と言う目的は同じなのでしょうから。deoさん、木村先生、頑張って下さい(^_^)
木村先生:   さて、韻踏みタイトルが広まってきたのに、木村がやらぬわけにいかないじゃない(笑)
月恵:   レスつけるのも、タイトル考えるだけで時間がかかってしまう<その割りに大した出来じゃない(ーー;)
  でも、ちょっと凝ったタイトルっていい感じです。
2003/04/16 言葉にこだわり 直し三割
deo:

  「やめちゃいな」の翻案押韻詩をまた手直ししました。4,7,8,12,13行目を変えました。
  韻の中に一つだけあった漢語「幸福」を「幸せ」に変えて、全部和語ばかりの韻になりました(「駄目」の「駄」は漢語だろという突っ込みはかんべんね(^^;))。
  語り手の人物像を“上品じゃないけど友情深い女友達”と想定し、8行目の「自分を解放しなさい」という、やや上品さがある表現を捨てました。
  これに伴って、7行目に「あいつ」という語が現れたので、4行目にあった「あいつ」を消して、比較的近い位置での同語の配置を避けました。
  うーん、我ながらすげえこだわり。

    もういい、やめなよ、強がり
    今まで辛抱ばっかり
    叫べばいいだろ、「もうダメ!」
    自分を殺していたから
    マンネリしちゃってだらだら
    そこから脱出するため

    あいつにこだわる言い訳
    捨てなきゃ不幸になるだけ

    もういい、やめなよ、その恋
    あんたの人生尊い
    今でもまだ間に合うから
    疲れた心を休ませ
    探しな、自分の幸せ
    まっすぐ前だけ見ながら

  参考: 実験詩集 【四・四・四律】 やめちゃいな
月恵:   全体に統一感が出ましたね。内容的にもより原詞に近くなったし、ラップでの響きも良いです。ずっといい感じになりました。
  私もこの詞は、deoさんの言われるような人物による助言、もしくは、恋に苦しむ本人が自分自身へ言い聞かせていると言う認識です。
2003/04/17 質のこだわり なくしちゃ終わり
deo:   ありがとございます。
  定型詩作りでは、自ら課した韻律の規則に完璧に合致させることにようやく成功すると、もうそれ以上いじりようがないという気がしてしまいがちです。
木村先生:   個人的にはそうでもなく。
  規則は遵守すれど、質を問わず、ただやみくもだった小生も、貴兄ばかりでなく、受講者訳にも刺激され、「集成」の全面改訂を考えています。よかれ悪しかれ、言いわけでもなく、「これにて完成」でなく、いつも「とりあえず韻が踏めた」、の心境だったから。
deo:   句末の語一つを入れ替えれば、それと韻を踏む語も入れ替え、全体としてつじつまが合うようにほかの語も入れ替えなければならないので、直しは大変。
木村先生:   日本定型詩協会時代、訳詩の評論で実感。
  でもそれで、韻の踏み方を体得し、独立。
deo:   それにしても、内容の味わいをもっと良くしようとがんばればけっこうできるものだと、改めて思いました。
木村先生:   貴兄にも授業にメールで参加していただいたように、同一作から、競訳なんていうのも、勉強になりますよね、手前ミソですが。
月恵:   こだわりって、ドツボにはまることも多いんですけど、「より良いものを」と言う気持ちの表れですから。
  他の人にはどうでも良い事にこだわる。作品創りと言うのは、もしかしたらそう言うものかも知れません(^_^)
deo:   そのとおりだと思います。たとえるなら、化学調味料を絶対に使わないという、料理人のこだわり。化学調味料を使っていようがいまいが、食べる客のほとんどは味の違いがわからないとしても、それでも自分に課したルールをかたくなに守る。それが良いものを生むものだと思います。
木村先生:   見えにくいようなところにこそ工夫を、には同意しますが、まずは、もっと見えてほしい、というのがホンネ。
  ルールのないものも定型詩と言いたがる人が多いけど、この精神は忘れてはなりません。
  二卵性双生児みたいな(笑)、deo さんと小生だけど、お互いにこれからも大いに切磋琢磨したいと思います。

戻る

日本語脚韻論議 (1) (2) (3) (4) (6) タイトル一覧

日本語脚韻論議(5)

2003/04/20 見えにくいこと 見えさせる音?
月恵:   木村先生、あの、レベルの低いド素人意見で申し訳ありませんが、『調べ』の皆さんの作品を拝見していても、私、どうしてもラップに乗せないと韻の部分がピンとこないんです。印刷された文字面だけを朗読しても、感動しないと言うか…。
  「これは韻を踏んだ詩なんだ、文字数は七七なんだ」と意識して朗読すれば、何とか「あ、こことここは韻だな」と分かるのですが、脚韻詩と知らずに読んだなら、韻に気がつかないかも(-_-;)
木村先生:   小生の努力不足をあえて棚上げして、他の方による素読を聞くと、違うかもな、と、ほとんど言いわけみたいなレスをさせてください。
  とりあえず。
月恵:   私の朗読に問題があるのかも。子供に長い間読み聞かせをしたので、どうしても感情や情景を込めて読もうとする。そうすると、抑揚や息の継ぎ目などが不規則になり、一定のリズムが保てないので、韻を見失いそうになります。
deo:   それが普通の感覚だと思いますよ。
木村先生:   小生だと、「それもまたあり」くらいで。
  ゆえに難しい。
  じつは昨日も、院生、学部生に、2コマ続けて、脚韻の時間。
  まだ、「洗脳」されていないが、普通に素読して、まずまず七七二重韻で感じてくれる。
  しかし、そういう人たちばかりではないのだ、ということで、貴重な意見をここではうかがえるわけですが。
月恵:   木村先生の授業で、「こんな風に読みなさい」との指示があるのかな?と思いまして。だとしたら、朗読の方法論も『調べ』に載せて欲しい、なんて。
木村先生:   例えば、詩吟の最初にやる素読そのものです。特に方法論はないですけど。
月恵:   何だか先生の授業に参加せねばならないような気がしてきました(^_^;)もっと『調べ』を繰り返し読んでみましょう。そうしたら私も違和感なく韻を感じるようになるのかも知れない。
  でも、理想を言えば、何も知らずに何気なく読んだだけで、韻に気がつき感動するのが一番ですよね。
2003/04/21 七七調 こんなのどう?
deo:

  ↓これはどうでしょうか?木村流七七調を守って私が作ったものですが、7音がすべて3+4に区切れるようにするという制約を課しています。三・四というのは、私のラップ律仮説の条件に合う律の一つです。

        梅雨に郷を憶う  頼山陽

    街のぬかるみ 乾きさわやか
    馬車が荷を積み 走るパカパカ
    里の我が土地 思い出す音
    梅の実が落ち 庭にぽとぽと

    [満巷の深泥 雨乍(たちま)ち晴れ
     輪蹄 絡繹として門を過ぎて行く
     故園 昔日 西窓の底
     臥して数う 黄梅の地に墜つるの声]
月恵:   随分と分かりやすいです。これなら普通に朗読しても韻に気がつきます。ちなみに百人一首を詠みあげるように、句末を伸ばして詠んでみても面白かったです。
2003/04/21 創意工夫 deoさん風
月恵:   『調べ』を読んで感じたんですが、7音でも単語や意味の区切りで分割表記されている(スペースが空けてある)部分がありますよね。読む時どうしてもスペース部分で休んでしまうので、どこまでで7文字になっているのか、どこが脚韻部分なのか見失ってしまう時があります。
  それで、結局スペース部分を無視して一気に7音ラップで読み直すんですが(-_-;)
木村先生:   横レスですみません。
  たまたま、韻を聞き取る実験について、deo さんとメールしてました。次号でも、この間の deo さんについての感想と意見の中でふれています。
  一つの貴重な意見として承りました。
  音楽に乗せない「素読派」の方もおられたり、感じ方はいろいろですが、自分自身の努力不足も感じます。
  数多く読めば、なんて楽観主義でだけでもいけないと思っています。
月恵:   本当は私も素読で、意味を味わうと同時に韻の響きを感じたいんです。ところが耳が鈍感なのか、ラップにしてしまわないと韻を楽しめないんです。
  でも、ラップだと忙しくて落ち着つかず、今度は意味を味わうのが疎かになってしまう(-_-;)
2003/04/21 強弱・高低区別をせんと 混同しやすいアクセント
月恵:   例えば『調べ』15号の夏目漱石「無題」ですけど、これを素読すると、最初の「避け」は「さ」が強くて「け」が弱い。次の「酒」は「さ」が弱くて「け」が強い。そうすると、危うく脚韻であることを見逃してしまいそうになるんです(-_-;)
  ラップで読めばどちらも同じ調子になるので、すぐ頭に入るんですが…。
deo:   「避け」は「強・弱」でなくて「高・低」、「酒」は「弱・強」でなくて「低・高」です。日本語のアクセントは強弱アクセント(ストレスアクセント)でなくて高低アクセント(ピッチアクセント)なので、強弱と高低が混同しやすいのですが。たとえばフランス語の「ボンジュール」(2音節)は、ストレスが「弱・強」で、ピッチは通常「高・低」なんですが、日本人はストレスに高低が引きずられて「低・高」で発音しがちのようです。
月恵:   あちゃ(×_×;)投稿する時、一瞬「高・低」とすべきかと迷いましたが、確信なくそのまま書いてしまいました。
  韻をやろうと思えばヨーロッパ語をしっかり学ばねば無理なんでしょうか…。
deo:

  説明に好都合な例として、2音の語ばかりで押韻しているものが私の作例にありました。

      村の夜  白楽天

    青い霜草、虫たち鳴く
    どっち向いても行く人なく
    畑一面照らすは月
    蕎麦(そば)の花たち、あたかも雪

    [霜草(そうそう)は蒼蒼として虫は切切
     村南 村北 行人(こうじん)絶ゆ
     独り門前に出て野田を望めば
     月明らかにして 蕎麥(きょうばく)の花 雪の如し]

  「な(無)く」は「高・低」、「鳴く」「月」「雪」はいずれも「低・高」ですが、いずれもピッチはそのままで「強・弱」のストレスに合わせて読めませんか?

  タン・タン・タン・タン/タン・タン・タン・ウン/
  ○あ・おい・しも・くさ/むし・たち・なく・○○/
  ○ど・っち・むい・ても/ゆく・ひと・なく・○○/
  ○は・たけ・いち・めん/てら・すは・つき・○○/
  ○そ・ばの・はな・たち/あた・かも・ゆき・○○/

  ラップ律ではこのように、手拍子1拍の「タン」のタイミングに二重韻がぴったり収まるようになっています。ラップで歌えば二重韻の2音が「強・弱」の拍に乗りますが、素読でも“暗黙の強弱拍”との整合で二重韻を感じやすくなるだろうというのが私の感覚です。どうでしょうね?
  参考: 
漢詩七六調訳
月恵:   ご説明ありがとうございます。
確かにピッチが一定なら韻もよく聞こえます。一定のリズムがあるなら、メロディなしでもOKです。
  と、言う事は定型詩を読む場合は、ピッチを一定にして読まねばならないと言う掟と言うか習慣のようなものがあるのでしょうか?それは、外国語の詩を読むときもそうなんですか?
deo:

  あーっと…「ピッチ」を「間隔」の意味で言っておられます?私は「音の高低」の意味で使いました。
  「ピッチ」を「間隔」の意味でおっしゃっているなら、外国語では音節数を揃えるのが普通です(漢詩も)。
  日本ではどうかというと、そもそも押韻詩をやってる人がごく少ないので、掟も習慣も何もありません。

  中国語は韻に適した音を持っているし、ヨーロッパ語にはストレスアクセントがあるから、音節数が変動してもテンポが揺らいでも、韻は確固として響きます。しかし、日本語は韻に好都合な言語特性が欠如しているから、韻を十分に感じさせるには
●2音を合わせる(一致する音の長さで不利をカバーする)
●末尾から2音目の子音が一致しない二重韻ならリズムで補う(ラップ律)
しか方法がないのではないかというのが私の考えです。
2003/04/22 この詩の韻を聴いてごらん 二重韻とはよくわからん
deo:

  ご参考までに、押韻定型詩の研究者梅本健三氏が「フラクタル韻律論」の中で、韻の聴き取り実験に使った詩として挙げていたものを引用します。

    枯葉踊る石畳            (3+3+5=11)
    歴史が眠る町並み        (4+3+4=11)
    あの曲がり角            (2+5=7)
    灯のともる窓            (2+3+2=7)
    古い酒場で              (3+4=7)
    二人は朝まで            (4+4=8)
    手に手かさねつつ        (3+5=8)
    聴いていたワルツ        (5+3=8)

  聴き取り実験の結果はこうだったそうです。

Aさん(日本人女性、28歳)「押韻は全部はよく聴き取れなかった。」
Bさん(日本人女性、25歳)「聞き取れたが、当たり前のような気がした。何が面白いの?」
Cさん(日本語を知らないイギリス人男性、28歳)「聞き取れたが、英語の詩に比べてあまりきれいでない感じがした。」

  梅本さんは、「Aさんの答えは意外だった。英語のヒアリングも不自由がない人で、言語音の聴き取りに慣れているはずなのに、こんな簡単な韻をうまく聞き取れないとは」と書いています。
  しかし、日本語韻の知識を相当深く持つに至った私でも、この詩では末尾1音の一致しか聞こえません。
木村先生:   「聞こえ」という点ではそうでしょう。
月恵:   同感です。私も末尾1音だと思いました。
deo:   音数がばらばらだと韻の効果が薄いというのは、木村先生も私も共通した考えです。
木村先生:   これは、真にそのとおり。
月恵:   定型詩の方が韻が響きやすいだろうことは、私も想像がつきます。
deo:   なお、梅本さんも私のラップ律論に対しては「着眼が鋭い。今後の研究に期待する」と肯定的に評価してくださっています。ゆるぎないベースを持つ人は、自分と違う考えもきちんと受け止めるというスタンスもしっかりしているものですね。
木村先生:   全く同じなら「一卵性」ですが、そうではないので、deo さんと小生の二人を、「二卵性双生児」と言いましたが、不適切かな?
  昨日の授業では、「同語反復、文法韻は、近親相姦である。縁がないのに相性がいいものが韻が踏めるのだ」なんて言い方を、思わず初めてしてしまいました(笑)。
月恵:   文字面を読むのも一つの方法ですが、詩と言うのは耳で聞いて覚え易いことが大きな要素なんでしょう。大学時代に恩師が言われた、「文字を知らない人々が大多数だった古代中国から詩が伝承されていったのは、耳で覚えやすかったからだ」との意味をつくづく感じている今日この頃。
木村先生:   もちろん、覚えやすいように、ということで韻を踏ますわけです。いずれかの行を覚えていたら、もう一行も思い出しやすい。
  朗読の際、自作を暗誦できない人もいる。朗読でなくてもか。
  暗記していればいいわけではないが、暗記していないほうがいいわけではない。
  朗読に感情を込めるのは、また別の話で(詩吟でも、吟譜に乗せるのと、そうでない素読とあるように)、とお考えにはなれませんか?
月恵:   詩吟を全く存じませんので、詩吟については何も申し上げられませんが、作品を何度も繰り返し読むで、一定の律を保つことに慣れていけそうな気がしています。
2003/04/22 韻踏み友達 明日への旅立ち
月恵:   「日本語脚韻」の5文字で検索すると、ほとんどdeoさんや木村先生に関係のあるページしかヒットしませんが、「日本語 脚韻」とスペースを空けて検索してみると、結構いろいろなページにヒットします。
  大野晋先生が『日本語の教室』(岩波新書)に日本語の詩に脚韻がない理由を説明されているとかで、大野先生の意見にすっかり納得したとのページも結構あります。
  ちなみに私はこの本、読んでませんが・・・。
木村先生:   恥ずかしながら読んでなかった。さっそく読みます。
月恵:

  小説家中村真一郎氏が「日本語においても詩人が努力すれば脚韻詩の可能性はある」旨、遺言のように残されたことも書かれているそうです。 

  でも、大半は「日本語では脚韻は無理」との意見のようです。理由は主に文法的なこと。日本語ラップの歌詞でさえ、「英米ラップの格好良さを真似しているだけの、陳腐な日本語」とこきおろしている人も多いです・・・。
deo:   日本語ラップはこき下ろされても仕方がないというのが私の考えです。私は、ある日本語ラップの歌でラップ律を思い付きましたが、その歌は、文芸としての観点からはそんなに良くない。ほかの多くのラップはもっと悪い。
木村先生:   ラップ系のアプローチが今年2件あって、すぐ「逃げた」。
  態度も悪い(笑)もうこりごり。
deo:   「日本語では脚韻は無理」は、反論にも値しない無意味な主張。そもそも、技術開発でもそうですが、可能であることを証明するには一つ作ればよいけれども、不可能であることを証明するのははるかにむずかしいのです。ありとあらゆる策を考えて、そのすべての策で不可能であることを証明して、それ以外の策がないことも証明して初めて「不可能」が証明されるのです。
  日本語脚韻の肯定派としては、可能であることの証明はすでにできています。しかし、それが世の大多数の人々が自然に楽しめるものを作れることの証明はまだ不十分だと思います。
木村先生:   「日本語脚韻」には、例外的なことがいくつもあり(笑)
  オレにできなくても、できる人がいて、あこがれるなんて、文芸でも、スポーツでも、普通のことなのに。
deo:   私は、自分の掲示板で、特に文芸に関心を持っていない人にまで韻踏みタイトルを自然に実践してもらうことに成功しました。“指導”はあえてしなかったのに、何人かの人が、洒落た楽しみを認めて真似してくれて、中には非常に見事な作品もあります。“一般人”が自然に楽しめる押韻の方法が少なくとも一つあることは証明できました。
木村先生:   楽しく拝見しています。次につながることを期待しています。
月恵:   多くの人を唸らせるような脚韻詩をドーンと登場させねばならないのでしょうか。前途多難ですねぇ(-_-;)
木村先生:   作り手の数を増やし、また一定の時間も必要かな、とやや逃げ腰のようなレスですみません。
  deo さん登場で、心強くはなりましたが、小生の努力不足もあり、まだまだか。
deo:   私は、力む必要はないと思っています。たった一組の韻で完結すればよいという規則で、多くの人が容易に作れる韻踏みタイトルをはやらせることは、私の戦略です。
月恵:   deoさんが言われていた、
●2音を合わせる(一致する音の長さで不利をカバーする)
●末尾から2音目の子音が一致しない二重韻ならリズムで補う(ラップ律)
しか方法がないのではないかとの説が、だんだん具体的に分かってきました。脚韻タイトルを始めたせいかも知れない(^_^;)
木村先生:   この効用は認めざるを得ませんね。すさまじいもん(笑)

戻る

日本語脚韻論議 (1) (2) (3) (4) (5) タイトル一覧

日本語脚韻論議(6)

2003/04/22 句末の音数 揃えてみますう?
deo:

  月恵さんのアクセントやリズムに関するご意見で、また新たなアイデアが浮かびました。定型律で作った私の作例の、句末6音または4音を維持したまま、その前を自由律に変えてみます。どのように感じられますか?

      「村の夜」定型律
    青い霜草、虫たち鳴く
    どっち向いても行く人なく
    畑一面照らすは月
    蕎麦(そば)の花たち、あたかも雪

      「村の夜」自由律
    青い霜草の中で虫たち鳴く
    村の南にも北にも行く人なく
    外を見れば畑を照らすは月
    一面の蕎麦の花、あたかも雪

      「やめちゃいな」定型律
    もういい、やめなよ、強がり
    今まで辛抱ばっかり
    叫べばいいだろ、「もうダメ!」
    自分を殺していたから
    マンネリしちゃってだらだら
    そこから脱出するため

      「やめちゃいな」自由律
    いいかげんやめちゃいな、強がり
    あんたっていつも我慢ばっかり
    思い切って叫びなよ、「もうダメ!」
    あんたが自分を殺していたから
    二人の仲はマンネリしてだらだら
    そんな状況から脱出するため
月恵:   句末の音数が揃えてあるので、韻だと気がつきます。この場合は逆に、4音(6音)の前にスペースを空けて表記するのが合うような気がします。
deo:

  ふむふむ。こんな具合ですかな?

      「村の夜」自由律
    青い霜草の中で 虫たち鳴く
    村の南にも北にも 行く人なく
    外を見れば 畑を 照らすは月
    一面の蕎麦の花 あたかも雪

  句末6音の直前ではわずかに音の切れ目を入れ、直後では十分なポーズを置いて韻を頭の中に残すという読み方をするのがよさそうですね。
月恵:   前の部分が自由律であるのにも関わらず、定型詩のような印象を受けますし、落ち着いています。
  「句末の音数は必ず一致させるべし」と確定してもいいかも知れない。
deo:   私はやっぱり定型律の方が好きですが、自由律でも句末の文節を4音か6音に揃えれば韻を感じると言う人が多ければ、自由律押韻も成立するかもしれません。
木村先生:   「個人的好み」では、ならば、二重韻でいいから、表現は自然になるようにするかぎり、「たくさん」踏んだほうが効果的かな、ということです。
  主観的問題のようですから、あまり深入りしたくないような、しかし。
月恵:   詩全体の出来具合に関して言えば、定型詩の方がずっと洗練されていると思いますが、自由律には優しさが感じられます。子供向けの詩になったと言うか。
  すごく優しい。
deo:   貴重なご意見です。行の前半で音数が自由に揺らいだ後、行末で6音または4音の定型リズムに収束してそこで脚韻が響くというのも、かちっとした定型律とはまた違ったおもしろさを生むかもしれませんね。
  2音合わせなら句末がどんな音数でも確実に響きますが、1母音+1音の二重韻を響かせるには、句末の文節を6音か4音に揃えることが肝になりそうです。
  おおお、新発見!
月恵:   バリエーションの幅は広がると思います。
  歌にするとか、子供にも韻を教えるとか、優しくて馴染みやすい印象を与えつつ、韻を知ってもらうには効果があるかも知れません。
木村先生:   韻は「易しく」はないと思いますが、「優しい」韻の追求には、個人的には欠けていました。貴重なアドバイスと受け止めます。ありがとうございます。
月恵:   芸術を一部教養人のたしなみにするのは勿体無いと思うのです。高い教養がなくても楽しめる可能性はあるはずで、作品創作上のルールを保ちながら、かつ気軽に楽しめる芸術へと、脚韻詩が進化してくれたらなと思います。
2003/04/24 新案さっそく 「揺らいで収束」
deo:   いやあ、人に理解していただくための努力は新しい成果を生むものですな。うれしや。
月恵:   先日ご紹介いただいた「村の夜」ですけれど、音の高低として「ピッチ」のご説明があったのですが、私は「ピッチ」を「間隔」だと勘違いしてしまいました。
  それで、今度は音の高低をつけないように意識しながら「村の夜」を読んでみました。
deo:   わかりにくいかもしれませんが、高低はつけてもいいんですよ。「Are you a teacher?」という英文を発音してみてください。「tea-」が強くて低く、「-cher」が弱くて高くなりますよね。同じように「月」「雪」を標準日本語のピッチアクセントどおりに「低・高」で発音しながら、それぞれ「つ」「ゆ」の方に強さを置いて読むことができると思います。
 でも、まあ、このことにはあまりこだわらなくていいです。
月恵:   ただ、8拍調子を保ちながらの方がずっとよく韻が聞こえます。韻の響き方にはリズムの方が影響が大きいのでしょうか。
deo:   月恵さんもそう思われますか。私のラップ律論は、私の独りよがりでなくて、やっぱり日本人の言語感覚の普遍性を突いているのかもしれないと思えてきました。
2003/04/26 曲に乗せたらどうかい? 韻の響きは爽快!
deo:

  先日の梅本健三氏の「フラクタル韻律論」にあった押韻詩を引用しました。読み返してみたら、「和田誠・作で、歌のために作られた詩のようだが、ぼくも実験台の人たちも曲を知らないので、読むだけの詩と同じということになる」とありました。

    枯葉踊る石畳            (3+3+5=11)
    歴史が眠る町並み        (4+3+4=11)
    あの曲がり角            (2+5=7)
    灯のともる窓            (2+3+2=7)
    古い酒場で              (3+4=7)
    二人は朝まで            (4+4=8)
    手に手かさねつつ        (3+5=8)
    聴いてたワルツ          (4+3=7)
(前回は最後の行を「聴いていたワルツ」と書いていましたが、よく見たら7音でした。)

  素読では韻に気付きにくいと思いましたが、適当なメロディーを作ってそれに乗せてみると、見事に響きます。メロディーは文字で表せないけど、リズムを示しますので、適当に想像してください。

    ○か・ーれ・は○・おど/るい・いだ・たみ・○○/
    ○れ・きし・が○・ねむ/る○・まち・なみ・○○/
    ○あ・ーの・まー・がり/かど・○○・○○・○○/
    ○ひ・ーの・とー・もる/まど・○○・○○・○○/
    ○ふ・ーる・い○・さか/ばで・○○・○○・○○/
    ○ふ・たり・は○・あさ/まで・○○・○○・○○/
    ○て・ーに・てか・さね/つつ・○○・○○・○○/
    ○き・いて・た○・○ワ/ルツ・○○・○○・○○/

  字脚が不揃いなので、歌詞としても良い作品だとは思わないのですが、無理やり曲をそれに合わせて作れば、二重韻を響かせることはできます。
  やっぱり日本語では、リズムで助けないと二重韻が響きにくいし、逆に、どんな音律でも、適切なメロディーに乗せれば二重韻を響かせることは可能ということになりそうです。
月恵:   リズム感ないのかなぁ、途中で分からなくなってしまいます(-_-;)
deo:   やっぱり、リズムを文字だけで説明しようとしても無理がありますね。説明を読み取るのにご苦労をおかけしてすみません。
月恵:

  でも、このリズムなら、頭の2行は滝廉太郎「春」の最初の部分に合います。

「はーるの/うらーらの/すみだがわー/のーぼり/くだーりの/ふなびとがー」
「かーれは/おーどーる/いしだたみー/れきしが/ねーむーる/まーちなみー」

  これで歌うと、「石畳」と「町並み」がとっても綺麗に聞こえます。でも、残り部分は字数が合わないので上手く行きません(-_-;)
2003/04/27 「町並み/歩く君」 これでも感じ気味?
deo:   またまた興味深いことをうかがいました。何が興味深いかというと、「春」のメロディーで韻が「きれいに聞こえる」という感性は、私のラップ律理論では説明できないからです。
  というのは、「春」のメロディーは強拍終わりですから、「石畳」と「町並み」の「み」に強拍が置かれます。
月恵:   う〜ん。確かに「み〜」と伸ばす部分は強拍なのかなと思うのですが、その前の音「いしだたみ」の「た」、「まちなみ」の「な」の部分が急に高い音にポーンと飛んでいてアクセントになっていると思うんです。
  それで「たみ」「なみ」が響くんではないかと・・・。
deo:

  なるほど。確かに、音の目立ちやすさにはメロディーの強弱拍だけでなく高さも影響しているかもしれませんね。また新しい気付きです。

  では、「春」のメロディーできれいに聞こえるとしたら、

    秋にひとり 歩く君
    歴史が眠る 町並み

という1音合わせでも聞こえ方にあまり違いはないと思えるのですが、どうでしょう?
月恵:   それが・・・。上と同じく「み〜」は響くといえば響くような。
  自分の歌声をサウンドレコーダーに録音して、何度も聞いてみました。「たみ」「なみ」の方がやっぱり綺麗に聞こえるんですけど、「きみ」「なみ」でも聞こえ方に違いがないと言われれば、そんな気もするんです。すみませんm(_ _)m
deo:   うーん、そうですか。私はあまり自分の主観を主張せずにほかの方のご意見を伺おうとしたのですが、「み」の前が“強く”はなくても、母音が一致していた方がやはりましかもしれないということはあるかもしれませんね。私も歯切れの悪い言い方になりますが。
2003/04/28 押韻詩作 暗中模索
月恵:   「韻は一音ではダメ、せめて二重韻でなきゃ韻とは呼べない」との先入観でそう感じてしまうのか?韻について全く知らない人のつもりで聞いたらどうか?と試してみたんですが、何ともこれと言う確信ある結論が出ません。
deo:   実は、木村先生が論文で引用しておられる松本恭輔氏は、私から見ても見事な押韻定型詩を作っておられるのですが、曲を付けて歌ったら「1音の一致でも響く」と詩誌に書いたとのことで、木村先生はがっかりされたとのこと。
  私は、その歌のCDをお借りして聴いたら、韻に気付きにくいと感じました。ヨーロッパ語の歌では二重韻は必ず「強・弱」の拍に乗せるのにそれを学び取った曲でないことや、韻でないところはさっさと歌って韻の後にポーズをとるというメリハリがないことが原因だろうと思いました。
  しかし、松本さんの感性が本当に普遍性のないものなのかどうかも探求したいと考えて、月恵さんに伺ってみたしだいです。
月恵:   木村先生のおっしゃる通り、メロディーと言った他の要素を排除して韻を追求するのが脚韻詩確立の正攻法だと思います。感性に頼ると、揺らいでしまった時に何とも説明のしようがない(-_-;)
deo:   それは確かにそのとおりだと思います。
  私は、「二重韻は偶数音の字脚に乗せた方が響きやすい」というラップ律仮説を提案しました。木村先生も、そこは筋が通った理論だと認めてくださっていますし、月恵さんも私と同じ感じ方のようです。もしこれが世の中に広く認められるなら、そのあとで、二重韻をメロディーに乗せる方法論は音楽家の手で自然に作り上げられることになるかもしれないと思います。
2003/04/30 こどもで実験 ちょっと発見
月恵:   息子(小4)で実験してみました。
  息子には何も教えないで、いきなり「春」のメロディーにのせた、
「かーれは/おーどーる/いしだたみー/れきしが/ねーむーる/まーちなみー」
を歌って聞かせました。
  何度も繰り返し歌い、「何が気がつくことがあるか?」と尋ねましたが、的外れな答ばかりでなかなか気がつきません。
  その後、上の歌詞を見せて、文字を追いながら聞いてもらいました。何度か繰り返して、ようやく「みー」が同じと気がつきました。
  次に、「秋に/ひとり/歩く/君/歴史が/眠る/町並み」も同様にテストしましたら、やはり「みー」が同じと答えました。
  さすがに、「たみ」「なみ」の二重韻と「きみ」「なみ」の1音合わせの違いは分かりませんでした。
  その後、脚韻について少し説明して、「た」と「な」
は母音が同じ、つまり「あみ」がセットで同じなんだと教えました。
  最後にもう一度、2つの歌を聞かせて、「歌を聴いていて、どっちの歌のほうがいいなぁと思うか?」と聞くと「たみ」「なみ」の方がいい歌に聞こえると答えました。両者の違いが理屈で分かってみると、やっぱり「たみ」「なみ」の方がきれいに聞こえると言う感じでした。
deo:   これは非常に貴重なデータです。ありがとうございます。
  なるほど。二重韻が「強・弱」の拍に乗っていなければ1音合わせとの違いに気付きにくいにしても、それでも二重韻の方がベターではあるとはいえそうですね。
2003/04/30 手本に誘引 自然に良い韻
月恵:   思うに、もともと脚韻と言う概念が確立していないから、こういう結果になってしまうんじゃないでしょうか。せいぜい「みー」の一音ぐらいしか気づかないし、逆に言えば「みー」の一音でも韻のような気がしてしまう。
deo:   それは確かにそうでしょうが、脚韻の概念が確立していない理由を突き詰めていけば、やはり日本語の言語特性に行き着くと思います。おそらく、息子さんも、英語や中国語を知らなくてもその押韻詩を聞けば韻に気付くでしょう。フランス語を知らない人でもフランス語の歌の韻には気付いているという話も聞いていますし。母国語である日本語で韻に気付きにくいのは、やはり韻に好都合な言語特性の欠如によると思います。
月恵:   それから、『調べ』の中で比較的言葉が平易な作品をいくつか読んで聞かせました。普通に読んだら、韻にはきがつきません。
  次に脚韻部分を意識して強く読んだら、気がついたみたいで「面白い!」と言っていました。
  そこで息子に脚韻と、ついでに頭韻も少し詳しく教えました。とても興味を示しまして、昨日はずっと一人で韻踏みごっこをしていました。子供の少ない語彙でもそれなりに楽しめるのです。
deo:   さもありなんと思います。末尾から2音目を意図的に強く発音することによって、その母音の一致が目立つようになります。これは、ストレスアクセントを持つヨーロッパ語からの類推で言えます。
月恵:   ただ、見ていて気がついたのは、しりとりならば「ん」さえ避ければ、子供でも半永久的に続けられるのに対し、韻遊びでは文法韻はダメ、同語反復はダメと注文をつけると、すぐに詰まって続けられなくなることです。
  息子はそれでも、また新たなお題に切り替えて遊んでいましたが・・・。
  難しいからこそ発見の面白さがあるのですが、難しさを面白いと感じることができない人には、なかなか続かない韻遊びは面白くないかも知れません。
deo:   「同語反復や文法韻はダメ」と初めから教える必要はないと思います。むしろ、いくつもやっているうちに“音が一致して当たり前のつまらなさ”に気付く方が、教育的効果があるのではないかと思います。
  私の掲示板での韻踏みタイトルにも同語反復や文法韻を見かけることがありますが、私は、求められない限り指摘しません。楽しんでもらうことが先決だと考えているからです。実際、基本を習得した私がさりげなく手本を示すだけで、皆さん自然に良い韻ができるようになっていますよ。
月恵:   いずれにせよ、木村先生のおっしゃる通り、脚韻詩の作り手を増やして脚韻と言う概念を日本人の脳に浸透させることが必要なんでしょうね。
2003/05/02 句末の音数変動 これだと響きの差はどう?
deo:   月恵さんにはいつもご意見をお願いしてばかりですみません。
月恵:   いいえ。感覚だけの不確かなお話しかできず、お役に立てているのやら(^^ゞ
deo:   以前、自由律でも句末の文節を偶数音に揃えれば韻を感じやすいとのご感想をいただきました。で、その際、句末の音数を全行で揃えるべきかどうかを考えたところ、音数が揺らぐ前半から後半の部分的定型律に移る時、後半部分は自立語で始まらなければ不自然だと気付きました。日本語の読み方では原則として、付属語(例:「〜ばっかり」)の直前にはポーズが入らないからです。「(〜して)いる」などの補助動詞もこれに準ずると思います。
月恵:   確かに。
  以前の自由律「やめちゃいな」を読み返しましたが、無意識のうちに「我慢ばっかり」と続けて読んでいるようです。定型句だからと「我慢」と「ばっかり」の間にポーズをとるのは不自然かも知れません。
deo:

  再度、「やめちゃいな」を自由律に改変してみます。その際、各行の後半部分の音数を、固定でなく、意味的に自然な区切りになるように4, 6, 7(=3+4), 8(=4+4)に変動させてみます。実は、これらの音数はすべて私のラップ律仮説の条件を満たすものです。
  私は、句末の字脚がばらばらな詩に比べればこれでも韻の感じ方は良いだろうと思うのですが、いかがでしょうか。

      「やめちゃいな」定型律
    もういい、やめなよ、強がり
    今まで辛抱ばっかり
    叫べばいいだろ、「もうダメ!」
    自分を殺していたから
    マンネリしちゃってだらだら
    そこから脱出するため

      「やめちゃいな」自由律
    いいかげんやめちゃいな 強がり
    あんたっていつも 我慢ばっかり
    思い切って叫びなよ 「もうダメ!」
    あんたが自分を 殺していたから
    二人の仲はマンネリして だらだら
    そんな状況から 抜け出すため
月恵:   意味的の区切りでスペースを空けるので、見た目にとても分かりやすいです。
  ラップで読めば、韻もよく聞こえます。ラップに乗る音数であれば、脚韻部分の音数を全句揃える必要はないかも。
deo:   支持者獲得!(^^)
  音数を縛った定型律にはない“優しさ”を感じると月恵さんが言ってくださったこともあるので、このような部分定型自由律は、世の中に受け入れられうるものだと考えました。私自身が積極的に採用したい流儀ではないものの、「脚韻を楽しみつつ、音数にはあまり厳しい制約を課さずに」というニーズに応える方法論を提示するのは私の役目だと思っています。
2003/05/02 貴重なコメント よく活かさんと
月恵:   最後の2行の自由律の部分がちょっとラップに乗りにくいかな、と。「二人の仲はマンネリして」と「そんな状況から」は、奇数だからかな?
deo:   そうかもしれません。自由律部分のリズムについてはあまり考慮しませんでした。私にはそもそも自由律のリズムというものがよくわからないので。
月恵:   「は」を消して「二人の仲マンネリして」、「状況から」を「泥沼」に変えて「そんな泥沼」にしてみたら、全編一気にラップに乗りました。そうしたら韻もすんなり聞こえます。
  「そんな状況から」は、「状況」を「じょうきょ」ぐらいの早口で読めばラップにのりますが。
deo:   なるほど。「泥沼」は和語なので、「状況」よりも硬さがなくて、私もその方が好きです。
月恵:   自由律の場合は、脚韻を含む句の音数をラップ律にするだけでなく、自由律の部分もラップにのる音数にした方が良いのかな?
deo:   私のラップ律は、古典律(俳句、短歌、都々逸など)と同じ数え方による音数を全体にわたってぴたっと揃えるものですが、音数を揺らがせてもリズムに乗るような音の並べ方というものはあるのでしょう。
  ただ、揺らぎに対する感性に欠ける私としては、「脚韻を響かせるには、句末の文節だけは8音までのラップ律条件に合う音数に」という方法論を提示して、「あとは、自由律に対する感性を持つ人におまかせします」というスタンスをとることになるでしょう。
月恵:   それと、韻のない前半部分の音数+韻のある後半部分の合計音数が、あまり多くないほうが響くと思います。一行が長くなると、耳が韻を忘れてしまいます。
  特に「もうダメ!」と「抜け出すため」は、もともと両者の間隔が離れているので、自由律だからと韻のない部分の音数を増やしてしまうと、韻だと気づきにくいと思います。
deo:   それは同感です。定型律の作は4+4+4の12音にぴったり揃っていたから、韻が離れても許容できるという木村先生のコメントもあったことですから、句末をそのままに改造した作は、部分定型自由律の例としてはあまり良くないかもしれません。
月恵:   自由律脚韻詩の可能性は十分あると思います。でも、定型詩のように音数を固定する厳しいルールではなく、一行全体の音数制限やラップにのせることが可能な音数に関する緩やかなルールはあった方がいいかも知れません。
deo:   句末の文節の音数を変動させても、ラップ律条件の音数を守れば韻の響きに大きな影響はないだろうという仮説に支持をいただけたことは、大きな収穫でした。ありがとうございました。

日本語脚韻論議 (1) (2) (3) (4) (5) (6) タイトル一覧
目次