No.85 2001/03/10
みいちゃんはじょじょを履いていたか

 有名な童謡「春よこい」の歌詞です。
春よこい 早くこい
歩き始めたみいちゃんが
赤いはなおのじょじょはいて
おんもへ出たいと待っている
(相馬御風・作詞、弘田龍太郎・作曲)
 私が子供の時、この歌を聞いて思い浮かべた情景はこうでした。冬が終わろうとしているが、外にはまだ雪が残っている。よちよち歩きのみいちゃんが、外へ出たくてたまらず、草履を履いて玄関の土間に降り立ち、春を待ちわびる様子で玄関から外を見ている。
 ところが、先日、NHKテレビでこの歌が放送された時、歌詞の字幕を見ていてふと気付きました。今になって思い付いたもう一つの解釈は、その情景の中ではみいちゃんはまだ草履を履いてはいなかったというものです。

 私は今までなぜ「みいちゃんは草履を履いていた」と解釈していたのでしょうか。それは、「赤いはなおのじょじょはいて」の後にポーズがあるからです。ですから、そこまででいったん意味がまとまり、次のまとまりである「おんもへ出たいと待っている」につながるものと自然に解釈していたのです。つまり、みいちゃんの言葉(あるいは思い)は「おんもへ出たい」の部分だけだという解釈です。
 言葉を話す時のポーズ、あるいは文章の上での読点(、)は、意味の解釈を左右することがあります。
彼女は草履を履いて、出たいと言った。(=彼女は草履を履いた。そして「出たい」と言った。)
彼女は、草履を履いて出たいと言った。(=「草履を履いて出たい」と彼女は言った。)
この例からわかるように、もし「じょじょはいて」の後にポーズがなければ、「赤いはなおのじょじょはいておんもへ出たい」がみいちゃんの言葉(あるいは思い)だったと解釈できます。しかし、そもそも歌の中のポーズはメロディーによるものですから、その意味に解釈させたいからといってポーズをなくすわけにはいきません。ポーズの有無は歌詞の意味の解釈の手がかりにはならないと考えるべきです。

 では、解釈のための手がかりはほかにあるでしょうか。私が思い当たったのは、「じょじょ」という語です。手元の辞書には見つかりませんでしたが、これはたぶん「草履」の幼児語でしょう。ということは、これは「おんも」(表)と共に、幼いみいちゃんが話した(あるいはみいちゃんの思いを代弁した)言葉の一部だったという推測ができます。つまり、みいちゃんは「じょじょを履いておんもへ出たい」と言った(あるいは思った)のであって、まだ草履を履いてはいなかったと考えられます。しかし、これは確実ではありません。作者は、みいちゃんの幼児用の草履を単に幼児語で「じょじょ」と呼んだだけで、それがみいちゃんの言葉の一部であるとは意図していなかったかもしれないからです。
 もう一つの手がかりは、まだ外へ出られない状況なのに幼児がわざわざ草履を履くだろうかという疑問です。だから、やはりまだ草履を履いてはいなかったかもしれないと考えられます。しかし、これも確実ではありません。みいちゃんが春を待ちきれずに玄関の土間で草履を履くのは、ありえないことではないからです。

 結局のところ、作者はどちらの意味を意図していたのでしょうか。いろいろ考えた末の私の結論は…お教えしましょう。マウスの左ボタンを押しながら枠の中をなぞってください。
どっちだっていいじゃないか!

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