No.3 1999/10/05
急ブレーキの科学

 自転車に乗る人は、前輪と後輪に同じくらいの強さで強くブレーキをかけると後輪がロック(車輪の回転が止まって路面を滑ること)することをご存じでしょう。ブレーキをかけると慣性力で前輪の荷重が大きく、後輪の荷重が小さくなるので、後輪が滑りやすくなるのです。
 四輪の自動車も同様で、急ブレーキをかけると後輪がロックします。そうなるとどういうことが起こるでしょうか。
 車輪は、転がっている時には横方向の力に対して強い抗力を発生し、進行方向を維持しようとする働きがあります。ところが、ロックして路面上を滑ると、タイヤと路面との摩擦による抗力は方向性を失い、横方向にも簡単に滑るようになります。
 この時、後輪が少し左へ横滑りし始めたとしましょう。すると、車体が少し右向きになり、前輪も車体といっしょに(進行方向に対して)右を向くことになるので、車体の前部が右へ振れます。こうなると、後輪の左向きの横滑りはますます加速され、車体はますます右を向いて、しまいにくるりと回転してしまいます。これをスピンといいます。
 低速であれば、後輪がロックしても、たいていはスピンがさほど大きくならないうちに停止することができます。しかし、高速だと、停止する前に車体の向きが大きく変わってしまいます。そうなってからブレーキがゆるんで車輪の回転が復旧しようものならかえって大変。車はとんでもない方向へ吹っ飛んだり横転したりすることがあります。ですから、高速走行時の急ブレーキは禁物です。

 …と、自動車の急ブレーキについてここまで書いてきたことが昔の常識であって、今では時代遅れであることをご存じの方は、相当な物知りでいらっしゃいます。(^^)
 いつからかはよく知りませんが、遅くとも1980年代後半以降に製造された乗用車には、この問題に対する安全策が施されています。それは、前輪のブレーキ力を強めて、急ブレーキ時には前輪を先にロックさせるという対策です。二輪車では前輪がロックするとたちどころに転倒するという恐ろしさを知っている人はびっくりしますか?
 四輪の自動車の場合、前輪がロックして横滑りを始めても、まだロックしていない後輪が進行方向に追従するので、スピン運動はすぐに収束します。そのあと後輪もロックしても、停止するまで車体はほぼまっすぐの方向を保ちます。(ただし、前輪がロックしている間はハンドルは効きません。車体はひたすらまっすぐ滑っていきます。)
 この安全策により、急ブレーキのかけ方の常識は変わりました。車輪がロックし続けないようにブレーキを踏んだりゆるめたりする「ポンピングブレーキ」がよいとされていたのは昔の話。そんなことをすると停止距離が伸びてしまいます。今では、一刻も早く止まるために、また、衝突が避けられなくてもそれまでにできる限りスピードを落としておくために最も良い方法は、力任せにブレーキを踏み込んで車輪をロックさせ続けることだとされています。(ただし、ハンドルで危機を回避できる状況になったら、ブレーキをゆるめてからハンドルを切ってください。)

 そして、1990年代後半ころから、さらなる安全策が徐々に広まってきました。それがABS(アンチロックブレーキシステム)です。これは、コンピュータ制御によって車輪のロックを検知してブレーキ力を弱め、車輪の回転を維持するシステムです。つまり、どんな熟練ドライバーにもできない最適のポンピングブレーキを自動的にやってくれるのです。これにより、急ブレーキをかけながらハンドルを切ることもできるようになりました。
 ABSは、乾燥した舗装路では停止距離を縮める効果もあります。制動力は、車輪がロックしている時よりも、車速に対して80〜90%の回転速度を保っている時の方がやや強いからです。しかし、かえって制動距離が伸びることもあります。たとえば砂利道では、車輪をロックさせて砂利を蹴散らした方が早く止まれます。ABSはあくまでも、急ブレーキ時にハンドルの効きを維持するためのものだということを念頭に置いて運転してください。

 さて、大多数のドライバーは、静かにブレーキをかけることに慣れすぎて、十分な強さの急ブレーキをかけることができないようです。安全な場所で、20〜30km/hくらいの低速で急ブレーキの練習をすることをお勧めします。ABSなしの車なら、車輪がロックして滑るまで強く踏むこと。ABS付きの車なら、ブレーキ力を弱めるためのキックバック(蹴り返し)をブレーキペダルに感じるまで強く踏むこと。(ただし、もし古い車で、後輪が先にロックすることがわかったら、高速走行時の急ブレーキは相当危険だと覚悟してください。)
 急ブレーキはタイヤを傷めるとか、車を長持ちさせるにも良くないなどということにこだわっていてはいけません。それよりも、いざという時に事故を回避するための訓練の方が大切です。
 もちろん、ふだんは急ブレーキをかけなくてすむ安全運転を心がけるべきなのは、言うまでもありません。

 なお、私が1978年に買った車は、急ブレーキで後輪が先にロックしました。1986年に買って今も使っている車は、前輪が先にロックします。前輪を先にロックさせる安全策がとられるようになったのは、この期間内のいつかだったのでしょう。

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